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人を殺してはならない──人類史を越えて共通原理を打ち立てるために
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名無しのゴリゴリ [ID:35d2b5] [2025/8/2 14:43:01]
私たちは今、世界大戦前夜ともいえる不穏な時代に生きている。
ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイランの衝突、アメリカのイラン核施設空爆──それらは単なる地域紛争ではなく、世界の構造そのものが軋んでいる証左である。
これに対して「軍拡」や「核抑止」など、力のバランスで平和を維持しようとする声も根強いが、果たしてそれは正しい方向なのだろうか。私たちが向き合うべき本質は、もっと深いところにある。

それは、「人は、人を殺してはならない」という一文が、もはや共有されていないという現実である。

この一文は、あまりに単純に見えるかもしれない。しかし、この一文が共有されなければ、私たちは「人間」という種を自称することすらできないのではないか。
この論考では、あらゆる視点──歴史、文明、進化、生物学、倫理、宗教、政治、哲学──からこの命題を検討し、それでもなお「殺してはならない」と言い切る根拠を丁寧に掘り起こしたい。



Ⅰ. 歴史における「殺人の制度化」とその正当化

人類の歴史は戦争の歴史でもある。
農耕の開始、都市国家の成立、鉄器の発明、宗教国家、帝国、近代国家──いずれの段階にも、戦争と殺人の制度化はつきまとってきた。
そしてそれは、ただの暴力ではなく、常に「正当化された暴力」であった。

宗教は「神の名において」、法は「社会秩序の維持のために」、国家は「国民の生命と財産を守るために」人を殺すことを制度化してきた。
現代社会においても死刑制度が存続している国は多く、安楽死の合法化も進む。「殺してもよい条件」が、民主主義の名のもとに審議されている。

このことは、殺人を個人の悪行と断じながら、制度としては許容するという倫理の二重構造を示している。



Ⅱ. 戦争によって文明が進んだという事実とその代償

軍事技術が通信や医学、交通に転用され、戦争が文明の飛躍的な進歩をもたらしたという見方は根強い。歴史的に見ても、古代の戦車、近代の鉄道、インターネット、GPS、果ては原子力まで、その多くが戦争の産物である。
また、国民国家や民族意識、英雄譚や叙事詩、近代芸術や文学の多くも、戦争の影響を強く受けている。

しかし、その一方で、数え切れない文化、民族、言語、宗教が戦争によって滅んできたことを忘れてはならない。戦争は常に、ある文明を生み出すと同時に、別の文明を抹消してきた。人類の進化と文明の発展は、命と引き換えになされてきたのである。

このように、戦争は人類の発展を可能にしたが、人間の尊厳とは相容れない方法だったという事実を、私たちは直視すべきだ。



Ⅲ. 種の保存と優生思想の誘惑

進化生物学の視点から言えば、殺し合いは自然界の摂理である。強い個体が生き残り、弱いものは淘汰される。人間社会においてもこの考えは、ナチス・ドイツの優生思想や、現代に至るまでの競争原理主義に根強く息づいている。

だが、それは「人間とは何か」という根源的な問いを避けている。
自然界の論理をそのまま人間社会に当てはめれば、人道、人権、倫理、法、平等、愛といった人間らしい価値観はすべて空想に帰すことになる。

進化の果てに人間が得た最大の能力は、「殺さなくても生きられる環境を創り出すこと」ではなかったか。
自然を制御し、社会を形成し、言葉を使い、未来を想像し、共感する──これらはすべて、殺さずに共に生きるための知恵の結晶である。
にもかかわらず、今また「殺すしかない」「やらなければやられる」という言葉が、国家単位で語られていることに、私たちはもっと強い危機感を持たなければならない。



Ⅳ. 縄文のような非戦の記憶を超えて、普遍倫理へ

日本列島には、争いの痕跡がほとんど見られない、1万年以上にわたる縄文の文化があった。この文化は戦争を前提とせず、支配構造も築かず、自然と共存し、交易によって人々がつながっていた。そこにあったのは、「共に生きる」ことの優先であった。

ただし、縄文文化をそのまま理想化して未来へ持ち込むことはできない。なぜならそれは、文字も国家も医療も高度な科学も持たず、現代の複雑な社会構造を支える基盤にはなり得ないからである。

だからこそ重要なのは、縄文に見る「非殺の文化」を現代的文脈に翻訳し、普遍化し、共有可能な倫理にまで高めることである。



Ⅴ. 「殺してはならない」は議論ではなく、人間の前提である

「人を殺してはならない」という考えは、宗教によって説かれてきたが、今それは宗教の枠を超えて、人類が自らの存続をかけて選び取らなければならない共通原理である。

それは理屈ではない。「1+1=2」のようなものだ。
これを共有できない人と、社会や倫理について語り合うことはできない。
逆に言えば、この一文を共有できることこそが、人間社会が成立する最低限の条件である。



Ⅵ. 民主主義における「殺人の選択」の危険性

民主的な手続きを経て死刑制度が維持され、安楽死が合法化され、戦争が承認される時代に、私たちは「民主主義=正義」と誤解しやすい。
だが、殺人の制度化が大衆の合意によってなされたとしても、それは倫理的には正しくない。

民主主義は手段であり、目的ではない。
そのプロセスが人命の抹消に至るならば、それは多数決の独裁に過ぎない。
「民意」によって人を殺すことが正当化されている今こそ、民主主義の倫理的基盤そのものが再検討されなければならない。



結び──「殺さない覚悟」を人類共通の文化へ

私たちは歴史の流れに逆らおうとしているのかもしれない。
殺し、奪い、勝ち抜いてきた種のなかで、「殺さない」と決意することは、最も非効率で、最も危うい選択かもしれない。

けれども、それでも私は信じている。
それが人間の本当の進化であり、文明の完成であり、唯一、人類を滅びから救う道なのだと。

国家や文化、宗教や政治の違いを超えて、
一つだけ共通にできる倫理があるとすれば、
それは「人を殺してはいけない」という、たった一つの前提である。

そして、私たちはそれを、再び世界に広めていく責任がある。
それが未来への礼儀であり、過去への誠実であり、
私たちが人間として生きることの、最後の支柱なのだ。