← スレッド一覧に戻る
修身なき天下論を戒める──吉田松陰『講孟箚記』に見る内面的実践の優先性
1
名無しのゴリゴリ [ID:9aeae8] [2025/8/2 14:14:58]
修身なき天下論を戒める──吉田松陰『講孟箚記』に見る内面的実践の優先性

幕末の思想家・吉田松陰(1830–1859)は、強い信念をもって儒学に基づく内面的実践を重視し、自己修養と行動の一致を説いた人物です。彼が安政2年(1855年)から翌年にかけて、野山獄および杉家幽室にて囚人や親族、門弟たちに対して行った『孟子』の講義をまとめたものが、『講孟箚記(こうもうさっき)』です 。

序文には以下のような言葉が見られます:

「道則高矣、美矣。約也、近也… 人徒見其高且美以為不可及… 而不知其約且近、甚可親也」
――『講孟箚記』序文

理想や道徳的原理(道)は気高く美しいが、その本質は簡素で日常的に実践できるものであると松陰は語ります。この認識こそ、まず己を修めること(修身)が出発点であり、ここを欠いた天下論は空虚であるという思想の根拠となります。

同じく序に引用される言葉には以下があります:

「経書を読む第一義は聖賢に阿らぬこと要なり… 若し少しにても阿る所あれば、道明らかならず」
――同上

これは、偉人・聖賢に盲目的に従うのではなく、自ら考えて学ぶ姿勢こそが本質であり、己を省みる修身を欠いた受容は真理を曇らせるという点で重要です。

松陰はまた、講義中に孟子の「惻隠の心」を取り上げて、「他者の苦しみに対する共感の心を育てずして、仁政を論ずることはできない」と説き、修身なくして仁政も語れないという立場を一貫して貫いていました。

さらに、“作輟”(学びを継続せず途中でやめること)を「学問の最大の禁忌」とし、真の修身には継続的努力が必須であると強調しています 。

松陰の言葉としてよく引用される、

「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」
――『留魂録』等

は、内面の誠意こそが社会を動かす力であり、至誠なき天下論は信を欠くという実践的な思想を象徴しています。

このように、『講孟箚記』には、「修身斉家治国平天下」という『大学』の理想を直接掲げてはいないものの、自己修養を行うことで初めて国家や社会を語る資格が得られるという儒教的な段階観が明確に貫かれています。